LOGIN刃を滑らせると、封筒の糊付けされた縁が細く裂けた。
紙片がテーブルへ落ちる。玲司が拾いかけて、手を止めた。 私は指先に力を込め、切り開かれた隙間から、折り畳まれた厚手の書類を引っ張り出した。上部には海外の検査機関の英字ロゴが印刷され、改ざん防止用のホログラムが青く光っている。 テーブルの向かい側で、玲司が微動だにせず立っていた。 彼の視線は、私の手元にある白い紙片に吸い寄せられたまま動かない。呼吸すら止めているかのように、胸の上下運動が消えていた。 私は書類を開き、日本語の訳文が添えられた最下部の結論欄に目を走らせた。 結果欄の活字は、ほかの行と少しも変わらない大きさだった。なのに、その一文だけが目に入った。『被検者A(高遠玲司)と被検者B(朝倉陽菜)の間に、99.999%の確率で血縁関係(父子関係)が存在することを肯定する』 読み間違えたくなくて、最初からもう一度読んだ。 息を吐いたつもりだったが、うまく空気が出てこない。指の腹が紙の角を折りかけ、慌てて手を緩めた。リビングに、陽菜の火がついたような泣き声が響き渡った。 段ボールにしがみつき、泣きじゃくる陽菜。 玲司はその光景を目にした瞬間、ぴくりと肩を強張らせ、言葉を失った。 玲司は口を開きかけ、いったん閉じた。 肩から、わずかに力が抜ける。「あ……いや、俺は別に……」 玲司の色素の薄い瞳が、困惑に泳ぐ。 伸ばしかけた手を行き場もなく彷徨わせる。ビジネスの場でどれほど苛烈な交渉をまとめてきた男であっても、泣き叫ぶ七歳児の前では無力だった。「陽菜、泣かないで」 私はしゃがみ込み、陽菜の小さな背中を抱きしめた。そして、玲司に向かって鋭い視線を向けた。「高遠さん。あなたが仰ることはすべて正しいかもしれません。でも、目の前で消えかかっている命を目の当たりにして、見捨てることしかできない大人に、この子を育てさせたくありません」 私が目を逸らさずにいると、玲司は何か言いかけて口を閉じた。 彼は顎を引き、長く息を吐いた。右手の親指が人差し指の腹を何度も擦っている。言い返すより先に、その手が落ち着かなくなっていた。「……っ、分かった」 玲司は苦々しく吐き捨てるように言った。「まずは病院だ。感染症の有無と手当が先だろう。……飼うかどうかは、獣医の判断を聞いてから決める」 完璧な正論を掲げていた男が、不格好極まりない形で折れた瞬間だった。◇ 玲司が手配した夜間対応の動物病院は、レジデンスから車で十五分ほどの場所にあった。 大型外車のリヤシートで、陽菜は膝の上にしっかりと段ボールを抱え、まだ時折りしゃくり上げていた。その隣に私が座り、助手席には上着を脱ぎ捨てた玲司が乗っている。「シートを汚すなよ。箱からは絶対に出すな」 バックミラー越しに、玲司が低い声で小言を言う。「分かってるもん」 陽菜はツンと横を向いたが、先ほどのような激しい涙はすでに収まっていた。 診察室の白いステンレス台の上で、子
陽菜が跳び上がって歓声を上げた。「ほら、静かにしなさい。驚いちゃうでしょう。まずは体を温めてあげないと……牛乳は、子猫には良くないんだったかしら。ぬるま湯で湿らせたタオルを持ってくるわね」 私が急いで洗面所へ向かおうとした、まさにその時だった。 カチャリと、玄関の重厚な防音扉が開く音が響いた。 靴を脱ぐ静かな気配に続いて、整った足取りが大理石の廊下を歩いてくる。 仕事帰りの玲司だった。 スリーピースのダークスーツに身を包み、手に革のブリーフケースを持った玲司は、リビングに入ってきた瞬間に足を止めた。 いつもなら整然としているリビングの中央に、汚れた段ボール箱が鎮座し、その横で陽菜と私が泥のついたタオルを抱えてしゃがみ込んでいる。 その異様な光景に、玲司はわずかに目を細めた。「……何をしている」 低く、抑えられた声。 陽菜はハッとして振り返り、嬉しそうに段ボールを指差した。「玲司さん、見て! 公園で子猫拾ったの!」 玲司は眉間を深く寄せ、ゆっくりと段ボールへ歩み寄った。上から箱の中身を一瞥した瞬間、彼の表情から一切の温度が消え去った。「……だめだ」 短く、断固とした拒絶の言葉。 陽菜の笑顔が、ぴたりと凍りついた。「え……?」「だめだと言ったんだ。すぐに元の場所へ戻してきなさい」 玲司はブリーフケースをサイドテーブルに置くと、腕を組み、冷徹な視線で二人を見下ろした。「なぜですか、高遠さん!」 私は思わず立ち上がり、玲司の前に立ちはだかった。「こんなに小さくて、風邪もひいているんですよ? 今外に戻したら、今夜の寒さで死んでしまいます!」「感情論の話をしているのではない」 玲司の声はどこまでも冷ややかで、会社の取締役会で厳しい決断を下す時のそれと何ら変わりがなかった。「第一に、このレジデンスの管理規約だ。ペットの飼育には事前の申請と許可が必要であり、野良猫を勝手
兄の直哉が嵐のように去っていった翌日の夕方、ペントハウスの静寂を破ったのは、いつもとはどこか違う陽菜の足音だった。 ドタバタと廊下を走ってくるスリッパの音。いつもなら玄関で靴を脱ぐと同時に「ママ、お腹すいたー!」と叫ぶはずの陽菜が、今日は息を弾ませながら、両手で抱え込むようにして大きな段ボール箱を運んできていた。 「ママ! ママ、大変!」 キッチンで夕食の野菜を刻んでいた私は、包丁を置いて慌てて振り向いた。 「ちょっと陽菜、どうしたのそんな大きな箱持っちゃって。どこで拾ってきたの?」 見慣れない青いロゴの入ったスーパーの段ボール箱は、角が少し潰れ、側面に泥の筋がついていた。陽菜の制服のスカートの裾にも、黒っぽい土の汚れがベタリと付着している。 「あのね、学校の帰りの公園のね、ベンチの後ろに落ちてたの! 雨が降ってたから、箱ごと持ってきちゃった!」 「えっ……公園に?」 私が眉をひそめて近づくと、段ボールの隙間から、ひどく掠れた小さな声が漏れ聞こえてきた。 ――ミー、ミー。 蚊の泣くような、弱々しい音。 私は息を呑み、陽菜が床に置いた段ボールの蓋をそっと開いた。 汚れた古いタオルの端っこに、手のひらにすっぽり収まってしまいそうなほど小さなかたまりが丸まっていた。濡れた体は痩せ細り、薄い茶色の毛が束になって皮膚にへばりついている。こちらを見上げる小さな顔には、目やにで半分塞がった瞳があった。 「……子猫?」 「うん。ずっと泣いてたの。誰も助けてくれないから、陽菜が抱っこしてきたの」 陽菜は自分のことのように得意げな顔をしつつも、どこか不安そうに私の顔色を伺っていた。私が「捨ててきなさい」と言うのではないかと身構えているのが、ぎゅっと握られた小さな拳から伝わってくる。 私は胸がキュッと締め付けられるのを感じた。 かつて、たった一人で部屋の隅で丸まり、どうしようもない不安に震えていた頃の自分たちの姿が、一瞬だけ目の前の小さな毛玉と重なったのだ。 あの頃の私は、誰かに拾ってほしいと思っていたわけではない。ただ、陽菜だけは濡らしたくない、寒い思いをさせたくないと、そればかり考えていた。だから陽菜が「誰も助けてくれないから」と言った時、その言葉を簡単には退けられなかった。 「……ずいぶん、小さいわね。風邪ひいてるみた
その夜、陽菜が眠ると、玲司はダイニングの椅子を引いた。テーブルへ置かれた書類は薄かった。表紙に印刷された御堂の名を見て、私は向かいに座る前に手を止めた。 「婚約解消への返答が来た。弁護士から、条件案が届いている」 兄さんが今日、玄関から出ていった姿がまだ目に残っていた。そのすぐ後で、別の家の名前がここへ入ってくる。私は椅子を引き、膝の上で手を重ねた。 「……通知を出しただけでは、終わらないんですね」 「提携の整理と、公表文の確認は残る。だが、結婚するという返事をするつもりはない」 玲司は私にも見えるよう、書類の向きを変えた。並ぶ項目のうち、一つだけ長かった。両家に関係する過去の調査を中止し、これまでに得た資料を対外的に使用しないこと。 私は読み終えたところへ指を置いた。 「これ……陽菜の検査のことも、入るんですか」 「そこまで含められる文面だ」 「あの紙を作った人が誰か、分からないままにするの?」 思ったより鋭い声が出た。寝室の方を見てから、私は声を落とした。陽菜は今夜も、使いかけの色鉛筆を一本ずつ箱へ戻していた。その娘の知らないところで、検体の代わりに、今度は書類一枚が暮らしの行く先を決めようとしている。 「その条件は飲まない」 玲司の返事は短かった。すぐに信じて安心してしまうのが怖くて、私は紙から目を上げられなかった。 「通知は出した、だから待てと言われるだけでは困ります。進まない理由があるなら、私にも話してください」 「……分かった」 玲司は私の返事を待ってから手を引いた。書類に並ぶ条件の一つひとつを、今度は私にも見せてくれている。それでも、すべてが決まってから知らされた七年前のことは、簡単には消えなかった。 玲司は調査中止の項目に線を引いた。万年筆の先が紙を擦る音が、静かな部屋でやけにはっきり聞こえた。 「公表の時は、陽菜の名前を出すんですか」 「出さない。君の名も、必要なら伏せる」 私は首を振った。 「私は、どう見られるかをあなたと話せます。でも、陽菜は学校へ行くんです。記事を消した後も、あの子はあの校門を通っているの」 玲司の指が止まった。書類を引き寄せる代わりに、彼は私の方へ身体を向けた。 「そこは、君と確認する」 「学校へ説明する時も、同じことを話せるようにしてください。私だけが、何が
リビングの隅で、陽菜がトテトテと歩み寄ってきた。 二人の大人が怒鳴り合い、母親が泣いている状況に、陽菜は怯える様子もなく、ただ不機嫌そうに直哉のズボンの裾を引っ張った。 「ねえ、おじさん」 直哉がハッとして見下ろす。 「ママをいじめないで」 小さな、けれど強い抗議。 直哉は膝を折り、陽菜の顔をもう一度見た。 自分と私の血を引く、妹の娘。 直哉の険しい目元が、ほんの少しだけ柔らかく弛んだ。 「……いじめてねえよ。大人のお話しだ」 「うそ。おじさん、すっごくこわい顔してた」 「……悪かったな。脅かすつもりはなかった」 直哉はぶっきらぼうに謝ると、陽菜の跳ねた髪を、ゴツゴツとした大きな手でくしゃっと撫でた。 陽菜は「あー、せっかく直したのに」と文句を言ったが、直哉の手を振り払おうとはしなかった。 直哉はゆっくりと立ち上がり、背中のジャケットを引っ張り直した。 「……今日は、帰る」 直哉は私を見ずに言った。 「陽菜。今度、おじちゃんの工房へ来るか? 綺麗な布がいっぱいあるぞ」 陽菜は私の顔をチラリと見てから、小さく頷いた。 「うん。いく」 「そうか」 直哉は少しだけ口角を上げると、玄関へと向かって歩き出した。 私が後を追おうとしたが、直哉は手でそれを制した。 「追ってくんな。頭冷やす」 直哉は玄関で靴を履き、扉を開ける直前で、一度だけ振り返った。 彼の視線は、私を通り越し、奥に立つ玲司へと向けられた。 「高遠」 「……なんだ」 「お前を許したわけじゃない。絶対に許さない」 直哉の瞳に、鋭い光が宿る。 「でも……陽菜の父親がお前だっていうなら、逃げんじゃねえぞ。これ以上結と陽菜を泣かせたら、今度こそ殺すからな」 玲司は逃げずに、直哉の視線を正面から受け止めた。 「……ああ。誓う」 直哉は短く鼻を鳴らすと、私へ視線を移した。 「父さんも……お前に会いたがってる。体調が良い日に、一度実家へ来い」 それだけ言い残し、重い防音扉がバタンと音を立てて閉まった。 玄関に残されたシトラスの香りと、直哉が残していった重い課題。 私は壁に背中を預け、ゆっくりとその場にへたり込んだ。 廊下の向こうでエレベーターの到着音が鳴り、やがて聞こえなくなった。私はしばらく、壁から背を離
私が叫び、二人の間に割り込もうとした。 だが、直哉の腕は鉄の棒のように固く、玲司の襟元を握りつぶしそうな勢いで力を込めている。 「お前、どんな面下げてここに立ってんだよ!」 直哉の目の縁が、血走り、赤く滲んでいた。 「親友の妹に手を出して、捨てて、うちの親父の会社を潰しておいて……今さら父親面して一緒に暮らしてんのか!? ふざけんなよ! 人間として終わってんだろ!」 「……俺を叩きたいなら、叩けばいい」 玲司が掠れた声で言った。 「言い訳はしない。七年前、俺が結を傷つけ、朝倉家を追い詰めたのは事実だ。どんな制裁でも受ける」 「制裁だと? 格好つけてんじゃねえよ!」 直哉が玲司の胸元を強く揺さぶった。 「お前がぶん殴られたところで、結の七年間が戻るかよ! 結が一人で産んで、育てるために頭下げて回った時間が、お前の血反吐一つで返せると思ってんのか!」 直哉の胸の底からの叫び。 最後の言葉だけが、わずかに震えた。 「違うの、兄さん!」 私が直哉の腕を強く引っ張った。 「玲司さんだけのせいじゃないの! 私が……私が何も言わずに逃げたからなの!」 直哉の手が一瞬、緩んだ。 直哉は驚いたように顔を巡らせ、私を見た。 「何言ってんだ、お前……」 「私、妊娠したことを兄さんにも、父さんにも言わなかったの! 誰にも言わずに、一人で家を出たの!」 私の目から、溢れ出た涙がこぼれ落ちる。 「だって……言えるわけないじゃない! 実家があんな状態の時に『親友の子を妊娠しました』なんて言ったら、家がもっとぐちゃぐちゃになると思った! だから私は自分で消えることを選んだの!」 「玲司さんを庇ってるんじゃないわ! でも、兄さんが玲司さんだけを責めるのは違う! 私だって、家族を捨てて逃げた卑怯者なのよ!」 私の叫びが、三人の間に重く落ちた。 直哉の手から完全に力が抜け、玲司の襟元が解放された。 玲司は壁にもたれかかったまま、小さく咳き込み、胸元を整えた。 直哉は自分の大きな掌を見つめ、それから私を見た。 「……お前も、ひどい奴だな」 直哉の声は、先ほどよりずっと低かった。 「七年間……生きているのか死んでいるのかも分からなくて。父さんが倒れて、工房の機械を叩き売って、借金の取り立てに頭下げてる間……お前は一人で